2009年10月17日
「自主管理への招待」5~否定し要求するだけの「閉塞の哲学」から、実現対象を獲得した「解放の哲学」へ

前回「自主管理への招待」4において、現実対象から目を背け「自己」を美化し続ける近代思想の正体を暴き、その突破口としての<自己から対象へ>の認識ベクトルの転換について扱いました。
しかし、認識ベクトルを転換し、社会を対象化したとして、これまでの学者や評論家のように、その社会自体を否定対象としていては、決して突破口は見出せません。
今回、その意識の根底にある「否定と要求」という構造に焦点をあてた「自主管理への招待」シリーズの5回目。
『否定し要求するだけの「閉塞の哲学」から、実現対象を獲得した「開放の哲学」へ』をお届けします。
バックナンバーはこちら。
①「自主管理への招待」1~工業生産から意識生産へ。時代は今、歴史的な生産力の転換を遂げようとしている。
②「自主管理への招待」2~社会は、生産力の転換によってしか根底的な変革を遂げることはできない。
③「自主管理への招待」3~生産から離脱させ、消費へと逃避させるだけの近代思想
④「自主管理への招待」4~「頭の中だけの自己」から「実現対象」への追求ベクトルの転換
【自主管理への招待(5)】社会の生産が変わる時、社会に深く根を下してきた思想もまた変わるしかない。工業生産の時代を支配してきた近代個人主義は、その対象性の欠如の故に、肥大化するエゴを制御し得なくなり、衰弱してゆく社会を蘇生させる力を失った。換言すれば、近代の主体は、奴隷的存在から脱却できなかったが故に、未だ存在の実現を射程内に納め得ない歴史段階にあったのだと言えよう。
(肥大化するエゴの象徴:大都市) しかし、人間が武力によって支配され、あるいは資本力によって支配されてきた人類二千年の歴史は、いま大きな転機を迎えようとしている。工業生産から意識生産への生産力の転換がそれである。意識生産は、人間の労働力そのものが、生産の主役と成り、社会の主人公と成る事を求める。そこで求められているのは、自己の奴隷性から目を外らせて「個人」幻想の中をさまよう事ではなく、明白に奴隷(雇われ人)からの脱出に向けて自己変革を計る事であり、現実の活動能力の貧弱さとはうらはらに自意識だけを肥大化させる事ではなく、現実を生きてゆく豊かな能力を獲得してゆく事である。要するに重要なのは、自己の現実の存在とは別の所(非存在の世界)に己を暖め続ける事ではなく、自己の獲得してきた意識と能力のすべてをこの現実の中に投入して、現実を突き抜けてゆく事であり、その導きの糸となるのは〈自己から対象へ〉の認識のベクトルの転換である。
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('70年には第3次産業が過半を越え、生産力は工業生産から意識生産に転換) もっとも、認識の方向を自己から対象へと転換させるだけでは充分ではない。自分にとって敵対的な「社会」だけを取り出し、それを体系化して否定することはたやすい。しかし、その「社会」体系は否定一方に歪小化された社会でしかない。否定は、未在の何かであるに過ぎず、その背後に潜む価値が実現されるのでなければ否定は(頭の中以外には)はじめから存在しなかったのと同じである。従って、否定がいつまでも否定のままで過ぎてゆく時(そうしてすでに百年も過ぎてきた!)、現実には決して存在しない否定世界の内に全ての内的価値が閉じ込められて終うことによって、現実そのものは何ひとつ変革されることなく、その否定の主体とは無関係に動き続ける。そして、否定している自分だけが、ひとり現実から取り残されてゆくのである。この否定の構造が、宗教のそれである事は、もはや繰り返すまでもないだろう。
このような意識構造は、はじめから自己の現実を変革する必要のない(現実を否定しているだけでも生きてゆける)人々に、おあつらえの「思想」的舞台を与えてきた。
(現実を否定していては実現に向えない) しかし、他人事ではなく、自分自身の切迫した問題を抱えた人間は、単なる否定の段階に留っている事はできない。本当に現実に解決を迫られた人間は、現実の中に解答を求めるしかない。変革=実現を求める現実の主体は、敵対的な状況の壁に何度もはね返されながら、その否定的な対象のさらに根底に、実現を可能ならしめる地平を探り続けてゆく。こうして、自己の現実とその対象世界を見つめ続ける認識の錐が、否定の目に覆われた「社会体系」を突き破り、遂に自己を実現し得る肯定的な社会構造の地平に至る時、従来の否定に貫かれた〈閉塞の哲学〉は、はじめて否定そのものを否定し、実現対象を獲得した〈解放の哲学〉へと超克されてゆくのである。
<自己から対象へ>と認識のベクトル転換を図ったところで、否定意識を根底的に覆さない限り否定的な社会体系しか取り出せず、現実そのものは何一つ変革できない事は、現在の閉塞した社会状況が物語っていおり、今や、そのような否定意識にとらわれたままの学者をはじめとする統合階級に答えを出すすべはないでしょうね。
しかし、一方で社会を肯定的にとらえ、自分たちに何が出来るか考えようとする潮流が若者の間からも生まれてきている様に、意識の深いところで、肯定的な実現思考への転換が進んでいます。
次回はその実現思考について、扱いたいと思います。
- by tamimaru at 20:49


コメント
『自主管理への招待』毎回気づきがあります☆
ありがとうございます♪♪
気づきだったのは、
現実の場面で、答えを出すとか、何かを実現するためには、『自分からみんな』へ意識をう外向きにすることだけでは不十分で、意識を外向きにしても、否定意識のままでは、現実は何も変わらない!
外向きに意識を転換して、現実をまずは受け止める=肯定する。そして肯定した上で、
『実現したいことは何だったのか?』
『そのためにはどうしたらいいのか?』
を考えて、実現イメージを固める。
この「実現したい何か」がないままでは未在の否定(存在しないもの)。
『実現したい何か』への方針に対して、
何らかの新しい可能性があるときにはじめて否定が生まれるし、そうやって実現へと向かっていくんだ\(^o^)/
認識の方向性は〈自己から対象へ〉と転換させるだけではまだ不十分。例え現実の対象に目を向けられたとしても、それを否定するだけのスタンスでは対象の背後に潜む内的価値を見出す事は出来ないからだ。
つまり、否定の頭では、現実を自分の価値観念の入り込んだフィルターを通して見てしまう。対象の狭い一部分を見て、すべてを知った気になってしまう。それでは、せいぜい目先的な方針を出してやりくりする程度。決定的な実現可能性を示せない。
そこで重要なのは否定というスタンスではなく、そのままの実態を事実として受入れること、即ち肯定的に対象を捉えることができるかということが重要になってくる。肯定視は、対象をありのままに過不足なく捉える意識へ最も近づけてくれる、それはその対象の内的価値に気付く可能性を遥かに広げることと同義であり、まさに実現の思考へと導く。
現実を否定する前に、事実は何かに意識を傾け、実現の可能性を探索する方向へと転換できたとき、「閉塞の哲学」は「解放の哲学」へと姿を変えることができる。