2009年10月10日
「自主管理への招待」4~「頭の中だけの自己」から「実現対象」への追求ベクトルの転換

前回「自主管理への招待」3 において、労働者をひたすら生産から離脱させ、消費へと逃避させるだけの近代思想の問題を扱いました。
近代思想の根本には個人という概念が大きく横たわり、みなが自己実現に邁進したばかりに、自己vs社会という構図の中で、自分の都合ばかりが優先され社会のことは置いてきぼりにされて行きます、
にも関わらず、その自己や自由や平等といった観念は実現されたためしが無い。つまり近代思想は、一度も実現されたためしが無いのですが、今回はそれがなぜなのか?
「自主管理への招待」シリーズの4回目。
『「頭の中だけの自己」から「実現対象」への追求ベクトルの転換』をお届けします。
バックナンバーはこちら。
①「自主管理への招待」1~工業生産から意識生産へ。時代は今、歴史的な生産力の転換を遂げようとしている。
②「自主管理への招待」2~社会は、生産力の転換によってしか根底的な変革を遂げることはできない。
③「自主管理への招待」3~生産から離脱させ、消費へと逃避させるだけの近代思想
応援お願いします
![]()
![]()
【自主管理への招待(4)】自らの存在を現実に実現してゆこうとすれば、常に現実の対象世界が立ち現れる。そこでは、まず対象世界の構造を把握し、自己を実現し得るような対象的基盤を獲得してゆかなければ、何も実現することはできない。だが近代思想は、このような対象世界の実現の構造を何ひとつ見極めようとせず、むしろ常に対象から目を背け、現実から逃避して、頭の中でだけ「現実」を否定し「自己」を美化し続けてきた。いま求められているのは、<自己から対象へ>の認識ベクトルの転換である。
(農業ブーム:近代が捨象してきた実質価値の見直し) 人間と社会の存在の本質を成しているのは、生産と労働である。だから、現実の生産を捨象した「社会」は、本当の社会ではない。現実の労働を捨象した「個人」は、もはや個人ではない。しかし、近代の運動は、このような本質的な生産活動とその現実的な社会対象を、ほぼ一貫して欠落させ、代わりに無内容な自意識だけを際限なく肥大させてきた。要するに近代人は、現実の中に可能性を求めるのではなく、現実とは逆転した、自己の観念空間に自足の場を求めてきたのである。
かつて奴隷は武力によって支配され、自己の社会的な実現の可能性を全面的に剥奪されていた。対象を失った彼らの人間的な欠乏(欲望または願望)は、現実に閉塞されて内面へと転倒し、全ての現実(俗世)に背を向けてひたすら自己内部の非存在の世界に、その対象を結晶させていった。こうして生み出された神を典型とする非存在の主体は、奴隷にとって唯一の人間の証しであった。だが、近代の労働者は奴隷ではない。近代人は閉塞されているどころか、この社会の競争関係を構成する競争の主体として、現実に開き出されて存在している。状況が開かれたからこそ近代の思想は人間の解放を唱え、社会変革を叫ぶことができたのである。にも拘らずそれは、自己の現実の存在から断絶した、観念空間での解放と変革にすぎなかった。これは、宗教と同じである。近代思想は、その根底を成す認識構造において、二千年におよぶ奴隷の習性から一歩も脱却できずに、宗教の目(神=非存在の主体の認識構造)をそっくり踏襲してきたのである。
(近代思想は宗教の目(神=非存在の主体の認識構造)をそっくり踏襲) 近代思想の正体は、すでに明らかであろう。つまり近代思想は、労働者の属性である〈誰かに雇われるのでなければ、自分では生きてゆけない〉奴隷的な現実を、不動の前提として組み立てられており、それ故その認識は、常に自己の現実から目を背けて非存在の世界へと収束されてゆく仕組みになっている。この宗教的仕組みによって、近代思想はもっぱら奴隷(雇われ人)であることを美化し正当化する事に腐心してきた。そして、現実には一度も奴隷であることをやめようとはしなかったのである。だから、近代思想とは、奴隷の思想に他ならない。近代思想には、そもそも奴隷である事をやめる意思など、はじめから無かったのである。だからこそ近代思想は、実現の意思の下にはじめて必要となる対象世界の認識を欠落させたまま、平然としていられたのである。だが、まさにこの実現の意思の欠如と対象の認識の欠如の故に、個人主義の思想はただのエゴの塊と化し、個人主義の運動は、ただ社会にブラ下がるだけの運動と化して終ったのである。
(労働者が奴隷(雇われ人)であることを美化し正当化)
これまで、近代思想が奴隷の思想であるなどと、誰も考えなかったのでしょう。しかし、言われてみれば、公務員指向や大企業指向なども、寄らば大樹の影とも言われたように、ぶら下がり意識を反映したものでしょうし、サラリーマン根性と言われるその言葉の根底には、いかに労働に対する見方が貧しいものであるか見て取れます。
最近でこそ、仕事に対する意識が、金をかせぐ為ということより、働くことそのものに充足を感じる、という人も増え、特に若者の間では、誰かの役に立ちたい、社会の役に立ちたい、と感がる人が増えてきています。
まさに今、自己を追い求めるのではなく、<自己から対象へ>の認識ベクトルの転換が必要なのですですね。
- by tamimaru at 22:47



コメント
市場の開放から圧倒的な身分と力の序列から解放され、自己を拘束する楔は解き放たれた。さらに'70年以降、貧困が消滅し豊かさが実現されたことで、誰もが社会の当事者たるための実現の可能性をも手に入れることができた。
しかし、これだけの条件がクリアされた現代であっても、未だに多くの人の頭の中を巣くうのは現実とは切り離された観念的な部分(特に近代思想)に終始してしまっているという実態にある。この原因構造が今回の文章から鮮明に分かったように思える。
要するに、人々の意識は、社会の実現の幅を広げていく意識に向かう方向ではなく、決められた社会の枠組みの中に疑問を感じることなくやっていくしかないという意識(他者管理の意識、奴隷的仕組)へと収束しているということだ。
ここでの根本問題は、従来の仕組を疑わないということにある。近代思想で培われてきた仕組ありきが前提なのだ。確かに自己を拘束する部分での人権、不平等の要求運動は加速的に推し進められていったが、これは枠組の疑問の解決というよりは、ただの要求運動、ぶら下がり運動に終始し、仕組を疑うという位置づけとは根本で異なっている。
それは、労働においても同様であり、徹底的に昔からの枠組に無理矢理合わせるだけで、やはり仕組に疑問を持たずにただもがいている状態に近い。このもがきを今であれば『どうにかする』という地平に立って、実現基盤を整えることができるのに向かわない、向かえないというのが今の現代人の葛藤だとしたら、それを打ち破る可能性とは、個人の枠を打ち破り、社会に目を向け、根本部分を追求する姿勢にある。まさに<自己から対象へ>のベクトル転換こそが可能性なのだ。
そのために、頭にこびりついた近代思想を徹底的に疑うこと、現実の社会構造を読み解くことが基本姿勢になるのだと改めて実感した。
近代思想の代表格である「自由・平等」。
では、なぜそのような観念が必要だったのか?
根本的には、他者管理のもとでしか生きられない現実であり、奴隷的な体制そのものであるはずだ。しかし、一方でそれに変わる体制や観念を生み出そうともしない。
自分だけの利益の追求、私権の獲得だけを目的にするのであれば、楽して金が稼げるにこしたことはない。つまり、手っ取り早く金を稼ぐには、私権序列の上位に立つことであることが誰の目にも明らか。その方法も勉強していい大学いい会社というレールが用意されていた。
その私権闘争の現実は自由でも平等でもない。その体制そのものは見ぬ振りをして、「自由・平等」を唱える理由は自らの私益を獲得する為の要求でしかない。
ゆえに、
>常に自己の現実から目を背けて非存在の世界へと収束されてゆく仕組みになっている。
のだと納得。
コメント 汚れなき男さんの
>実現基盤を整えることができるのに向かわない、向かえないというのが今の現代人の葛藤だとしたら、それを打ち破る可能性とは、個人の枠を打ち破り、社会に目を向け、根本部分を追求する姿勢にある。
がすっごい気づきでした!
みんな課題にしたらみんなの活力上がるもん!
今まで与えられた仕事をしてお金を稼ぎ、そのお金によって余暇をいかに充実させるか?が人生においてとても大切な課題だと思っていましたが、与えられる労働、ある枠組みの中で他者に管理された労働が、無意識的に当たり前=不動の前提と捉えていたことを気づかされました!!
めっちゃハッとさせられました(>_
そしてこの仕組みが奴隷の習性と同じであるという構造認識を知り、近代思想の恐ろしさも・・・
奴隷時代は終わり、実現可能性は開かれ、実現基盤もある時代なのに、これはとてももったいないなぁ~