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2008年02月23日

「菊と刀」が捉えた日本人とは?

479px-Ruth_Benedict.jpg ルース・ベネディクト (1937年)

ルース・ベネディクトの『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword)は、日本文化を説明した文化人類学の著作である。『菊と刀』は、ベネディクトの戦時中の調査研究をもとに1946年に出版された。

菊と刀』は日本文化の価値体系の独自性を強調する。しかし、最近ではそれを懐疑する傾向も見られる。すなわち日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれていることに、批判の目が向けられている。また、日本の文化を外的な批判を意識する恥の文化と決め付け、欧米の文化を内的な良心を意識する罪の文化と定義し、倫理的に後者が優れていているとの主張を展開したことへの批判もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 : ルース・ベネディクト
 これらの最近の批判は、本当に正しいのだろうか? 
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「菊と刀」(長谷川松治 訳)を読んだ上で、原典を忠実に注釈されている
『菊と刀』注解(森 貞彦) が大変参考になるので、その中から一部を引用させて頂いています。
●「菊と刀」の副題に「日本文化の型」とあるが、「文化の型」とは何か?(森 貞彦)

ベネディクトの「文化の型」は次の三つの重要な前提を充たすものです。
①人間の社会は、外部から導入される、あるいは内部から発生してくるあらゆる情報をそのまま無差別に承認すると混乱し、崩壊する恐れがあるから一定の基準を設けて統制をする必要がある。
②統制の基準は、人間の生存を危うくするものでなければどんなものでもよい。
③統制およびその基準は、恣意的な変更を加えられてはならないから人々に意識されないことが必要である。

●「菊」と「刀」は、日本文化の何を象徴しているのか?(森 貞彦および翻訳本)
擬装された意思の自由・・・・菊花展で輪台をつけた「」の花(偽装的な自然の象徴)
→人間の目に美感を与える範囲を逸脱しないように人の手で管理されている
 「みんなと同様」という一線を決して越えない日本人の「自由」のあり方
自己責任の態度・・・・・自分の身体と「」を同一視(例えば、「身から出た錆」)
→「刀」は攻撃の象徴ではなく、理想的な、立派に自己の行為の責任を取る人間の比喩
⇒ 例え刀を捨てても、ややもすれば錆を生じがちな「心の中の刀」を磨こうとする
  ★この二つが『日本文化の型』である
●「菊と刀」が捉えた、日本人とは?(原典)

Those who do respect themselves (jicho) chart their course, not between ‘good’ and ‘evil,’ but between ‘expected man’ and ‘unexpected man,’ and sink their own personal demands in the collective ‘expectation.’
自らを尊重(自重)する人は、自分の進路を『善』と『悪』との間にではなく、『期待される人』と『期待されない人』との間に描き、自分自身の個人的要求は集合的『期待』に埋没させる。

●「恥の文化」とは?(森 貞彦)

結局、自分自身の進路を他者の評決に合わせねばならず、しかもそのことを他者に知られなければ不利な評決を下される可能性が増大する――言い換えると「みんなと同様」という一線を越えるのが非常に危険である――ので、いやが上にも階層制度への信仰と信頼を堅持しなければならないことになるのです。
その結果、小は兄弟姉妹の関係や先輩と後輩の関係から、大は国際関係に至るまで、日本人の行動には一定の型が表れることになります。そしてその「自分自身の進路を他者の評決に合わせねばならず、しかもそのことを他者に知られなければ不利な評決を下される可能性が増大する」ということは「擬装された意思の自由」に沿ったすじ道です。

●「菊と刀」から見た、「日本人らしさ」とは?(森 貞彦)

本当の日本人らしさは、恥の文化に伴う自己監視と自己監督とを苦痛と感じ、
その文化の中にありながら それを超越する道を求めるところにある。


●私の感想
多くの人は「菊と刀」について、西欧文化は倫理基準を内面に持つ「罪の文化」であるのに対し、日本文化は外部(世間体・外聞)に持つ「恥の文化」と理解しています。
しかし、これでは不十分でしょう。相対比較の中核をなすのは、西洋人は「自我」で意識を統合し、東洋人は「規範」で自己の意識を統合するという違いにあります。
では、日本人の「規範」とは何か?
アメリカの文化人類学者であるベネディクトは、西洋人であるにもかかわらず冷静に、集合的『期待』という言葉を用いています。換言すれば、集団規範に則った「みんな期待」です。これによって、集団も自己も意識が統合されます。そのために、序列を共認していた。これが戦前の日本の姿です。
ところで、 「みんな期待」に応えて共認充足を求める地平は「特異」なのでしょうか?
人類500万年の歴史に照らしても、普遍的な価値ではないでしょうか。
西洋と東洋の文化比較だけをしていても、生産的ではありません。
ベネディクトは、戦後の日本で反米感情が沸き起こらないように配慮して、アメリカ人に向けて「菊と刀」を書きました。彼女は西洋人である前に、平和を願う一人の文化人類学者でした。
彼女は、「恥の文化を超越する道を求める」日本人の中に、
「文化を超越する可能性」を見出していたのではないでしょうか。
「菊と刀」への批判や揚げ足取りは簡単です。彼女は一度も日本に来たことが無いから不十分な部分はあるでしょう。しかし、「見えない相手(対象)を理解しようとする追求力」 と その背後に秘められている「人類社会に対する期待」に、私たちはなんとか応えたいと思います。

はっしー でした

 

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