2009年09月26日
「自主管理への招待」2~社会は、生産力の転換によってしか根底的な変革を遂げることはできない

現在、社会が大きく変動しようとしている事は、ほとんどの人が嗅ぎ取っています。しかし、そのような時代状況の中で、いったい何を実現しようとしているのでしょうか?
政治には期待できないという声をきく一方、既存の社会システムに変わる新しい取組みなども見えず、ただ既存の社会システムに寄りかかるだけで、社会全体が疲弊していくという流れを断ち切ることが出来ないでいます。
しかし、実はこの様な時代状況は今に始まったことではなく、貧困が消滅した'70年頃から見られた現象なのです。
今回は、「自主管理への招待」シリーズの2回目。「社会は、生産力の転換によってしか根底的な変革を遂げることはできない。」
'70年頃の人々の意識状況とその根本的問題について鋭く突き、今後の可能性を示した投稿を紹介したいと思います。
【自主管理への招待(2)】高度成長期にあれほど盛り上った若者のエネルギーは、新しい活力が現実に求められている今、見る影もなく沈滞している。また、経済が繁栄していた頃あれほど威勢よく賃上げを進めてきた組合は、現実に消費需要(←賃上げ)を作り出すべき肝心の今、何の力にも成らずに敗退を重ねている。人は生産が低落すればするほど生活の内に身を充足させ、時代が激動すればするほど体制の中に身を定着させるものなのであろうか?
社会の繁栄期には「反体制」的なお祭りに打ち興じ、社会の衰弱期にはその体制に依り縋るのだとしたら、それらの人々にとってこの社会体制はよほど頼りがいのあるもののようである。だが、そのような「思想と運動」は、社会の経済的繁栄の上にオンブされた、偽りの「自己主張」にすぎなかったのだと言うしかない。なるほど彼らは、頭の中では人間主義を標榜し、口先では社会変革を唱えてきた。だが指導者自身が方向を見失い、社会全体が衰弱してゆく状況の中にあって、何ひとつ新しい方向を提示し得ずにむしろその体制にブラ下って生きているのだとしたら、その「社会変革」の中味は、実は体制隷属ではないのだろうか?そのような「人間主義」の中身は、実は奴隷主義ではないのだろうか?
一言でいえば、彼らは表面と中味が、自分自身の意識と存在が、完全に断絶している。どれだけ高度な思想で自らを武装したところで、それでメシを喰ってゆくことの現実が、消えてくれるわけではない。どれだけ人間的連帯を叫んだところで、それで他人を蹴落して大企業に居ることの現実が、帳消しになるわけではない。そこでの「思想」は、常に自己の現実の前に挫屈し、いずれ消え失せる以外に何の道も残されていない。
実際、そのような「思想と運動」は、何を残し得たのか?残された彼らの真実は、受験戦争に勝ち抜いて大企業に入り、そして今ではその体制に寄りかかって、ひたすら身の安定を求めているという現実ひとつ以外に何もない。その現実は、彼らの頭の中の「人間主義」や「社会変革」と、どう結びつくというのか? 自ら否定している現実と、自分自身の現実とは同一ではないか!いったい、自己の思想と現実との、この鋭い背反をどうするのか?既成の思想は、この問いに答えるべきであろう。その「思想」があってもなくても、自己の現実の存在には何の変りもないのだとしたら、もはやその「思想」は存在する資格がない。自己を見つめるべき思想が実は自己の現実から目を外らし、社会を変革するべき運動が実は現実の社会にブラ下り、さらにこのような自己矛盾にさえ不感症になって終った「思想と運動」に残されたものは、もはや精神の荒廃だけである。
自己の現実が深く関わっているこの社会は、それ自身の生命と構造を持っている。社会は、その時代の人々の欲求に応え、かつ人々の営為によって担われる〈生産様式〉を土台として、その様式に応じた生産と政治の諸関係を構成し、再び人々の存在と意識をそれらに適応させる。つまり、人問と社会との夫々の存立の基盤を成し、夫々の存在の中核と成っているのは、生産であり労働である。従って、私たちの認識にとって重要なのは、あってもなくても良いような「思想」ではなく、人間と社会の基底的な現実を形成している生産様式の認識であり、あるいは、社会への一方通行で空まわりの「自己主張」ではなく、人々の根底的な欲求が交わり合う生産関係の認識である。
また人間と社会は、人々の日々の圧倒的な営為によって生産力が発展し、それにつれて生産様式が転換されてゆくことによってしか、根底的な変革と発展を遂げることはできない。従って、あれこれの政治運動以前に、何よりもまず、社会の土台を成す新しい生産のあり方を提示することなしには、社会を変革することはできない。同様に、あれこれの生活要求以前に、自己の土台を成す新しい労働のあり方を提示することなしには、意識と存在の断絶を止揚して自己を実現してゆくことはできない。
【意識と存在の断絶】、この認識が提唱されて30年以上たったことになりますが、悲しいかなこの認識自体が今でも新しく、ここ数年前の状況をあまりにも端的に示していると思いました。
また、'70年頃は貧困という外圧が衰弱した時代ですが、外圧=内圧(=活力源)という生物の根本原理(参考)から考えると、貧困という圧力が衰弱した途端に活力衰弱に陥いるのも必然だったんですね。
しかし、昨年の金融破綻
を契機に、このままではダメだ!!という機運も生まれて来たように思います。貧困に変わる外圧をしっかり掴み、生産の場から変革できれば、意識と存在の断絶状態も解消に向かえそうです。
- by tamimaru at 23:13






コメント
>社会は、その時代の人々の欲求に応え、かつ人々の営為によって担われる〈生産様式〉を土台として、その様式に応じた生産と政治の諸関係を構成し、再び人々の存在と意識をそれらに適応させる。つまり、人問と社会との夫々の存立の基盤を成し、夫々の存在の中核と成っているのは、生産であり労働である。<
貧困の圧力から同類圧力へと外圧が大転換して、今までの物的生産から、意識生産・類的生産という生産形態も大転換したんですよね!!
みんなの意識=社会を対象化すればするほど活力が湧いてくるし応望していきたいと思う時代。
活力源・応望に限界はない!!
しかもどんな場所でも、誰だって生産者になれる!!
ということは・・・類的生産って無限大って想いました☆
社会の土台(生産)と人間の土台(労働)をつなぎとめる核となるのは生産様式にある。採取生産の社会であれば共認ベースとした共同体組織が労働のあり方として重要であり、工業生産であれば私権追求をひたすら邁進できる序列を基底とした私権企業が労働のあり方として重要であった。このように現実の中の生産の形と労働のあり方は、人々の意識と存在を適応させる自然の摂理(普遍構造)の中にある。
しかし、貧困の克服以来、私権が衰弱し物的飽和状態になると、人々の欠乏の中身は大きく変化し、如実に物的生産の衰退が明らかになり始め、社会は、類的生産を求められる時代へと移行した。ここで、本来であれば、求められる生産の変化と同時に労働のあり方も変化するはずではあったのだが、それに適応するような労働のあり方を模索する動きは今現在もほとんど見られない。そして、結局のところ、人々がとる行動と言えば常に運動と要求で終始してしまうのである。そしてそれは悉く何も実現されること無く、形骸化されたカタチで終わってしまうのだ。
そして、この生産の形と労働のあり方のズレは、労働者の活力を大きく削ぎ、社会の衰弱期に見られる体制に依り縋る意識で異常なほどの規範収束と制度収束を生み出す。これが今の日本が閉塞状態からの抜けきれない根本原因である。
今、重要なことは、類的生産へと生産の中身が変化した事実に目を向け、それに適応した労働のあり方を創出することにある。この生産に応じた新しい労働のあり方無しには、先の普遍構造からもわかるように、外圧に適応など絶対できるはずがないのだ。
そして、次代の可能性とは、生産も生殖も包摂した共同体企業の可能性と脱市場を本気で考えることにあるのではないだろうか。まずは、市場拡大を絶対にしてきたこれまでの社会の仕組や観念を改めて問い直して現実を捉え直す事から始めなければならない。
もはや政治運動や生活要求などしている場合ではない・・・
「思想と運動」に代表される学生運動や労働運動が、現実に立脚しない思想では何も実現できないことを示した。
まさに生きている現実からしか何も変わらない。
人類は外圧適応態であり、外圧に適応するかたちで生産様式を変えそれに適応する規範や制度、意識を形成していく。現実に立脚しない思想は、現在でもはびこる近代思想のように皆の潜在意識の発露に蓋をする害でしかない。このことは、観念動物である人類の弱点として認識しておく必要がある。
>何よりもまず、社会の土台を成す新しい生産のあり方を提示することなしには、社会を変革することはできない。
ゆえに、現実に社会の生産を担う(外圧を真っ当に受ける)庶民の意識からしか社会が変わっていくことはない。インターネットの発達でサイトやブログにより皆の意識が見て取れることが、最大の可能性なのだと気付いた。これってスゴイことだ。